大阪ムジゲ会発足に至るまで

大阪ムジゲ会は今から丁度10年前の2001年6月2日、中大阪朝鮮初級学校の教室の一室で結成の産声をあげました。当時、東京では1995年に在日朝鮮人障がい者の会としてムジゲ会が結成されており、その活動が地方にも拡大し始めた頃でした。 その活動の一環として2000年8月に瓢箪山の近畿学院で『ムジゲ会IN大阪』という1泊2日のセミナーがあり、それに参加した前会長をはじめ6名のオモニたちを中心に、大阪でもムジゲ会を結成して、同じ境遇のオモニたち、子どもたちの交流の場を 持とうという気運が高まり、8回の準備委員会をもってようやく大阪ムジゲ会は結成されました。
大阪ムジゲ会の発足は、同胞社会の中で手つかずであった福祉に着目し、それまで表面化することの無かった障がい者とその家族を積極的に支援しようという総連組織の新しい姿を打ち出した大変画期的な出来事でした。 当時の結成報告には自分以外にも沢山の同胞障がい者が存在することの驚きと安堵感、希望と不安が入り混じりながらも偏見に打ち勝って子どもたちの未来の為に共に力を合わせて前進していこうとするオモニ達の気概が強く記されています。  


大阪ムジゲ会の歩み

結成後のムジゲ会は月に一度の定例会や通信の発行、ハイキングや芋ほり大会、バーベキュー大会等、さまざまな行事が行われ、数多くの総連イルクンやハッキョ先生、朝高生等がボランティアとして動員されました。

しかし、福祉活動をいかに運営 していくかはまだまだ手探りの状態で、障がい者家族同士は知り合えても、ボランティアの役割分担が曖昧な状態で、ボランティアと障がい者家族の交流が希薄なまま、次に生かされない事が多々ありました。この頃はまだムジゲ会が活動の方向性を模索していた時期といえます。

2003年の第2回の総会の後は留学同を中心としたボランティアの支援で3ヶ月に1度のペースで生野区にある老人介護施設ハーモニー共和の1階ホールを借りて障がいのある子どもたちの音楽療法が開始されました。

子どもとボランティアが音楽遊びを行う間、親同士は親睦会を行うという一定のスタイルが定着し、季節毎の行楽やクリスマス会などの行事も継続され、ムジゲ会通信も第4号まで発刊するなど安定した活動が行われました。

同胞福祉連絡会という全国組織も結成され2年に一度の長野、北海道、愛知、兵庫、京都で行われた全国交流会に大阪のムジゲ会からも多くの会員が参加し、さまざまな障がいを持つ同胞家族と交流を深める事が出来ました。朝大のボランティアサークルTuttiの活動の実際などを知り同胞社会の中で障がいを理解し支えていこうという福祉のネットワークが築かれていることを実感し心から癒され、大きな支えを得る事ができました。


困難を乗り越えて

2005年の第3回総会までは順調に活動していたムジゲ会でしたが、その後は大きな転機を迎えます。

在日同胞を取り巻く情勢の厳しさから組織の継続的な支援を受けることが難しくなり、子どもたちも成長していく中で学齢期の子どもが社会人になったり、それぞれのニーズも変化し対応に追われ始めました。 役員達の都合が合わなくなり、徐々に会合も持てなくなりました。

2006年にはとうとう活発化していたクリスマス会迄中止する事になり、大阪ムジゲ会の実質的な活動は事実上、休止するに至りました。

しかし、支援のともしびは消える事無く、翌年の2007年からはボランティアサイドの呼びかけによって年末のクリスマス会だけの活動を再開しています。 この時参加したのはたった3家族でしたが、長年支援してくれたハッキョ先生、留学同のOBを中心としたボランティアと、身近な家族や親族、友人達にも参加してもらい少しずつ裾野を拡げていくことを目標に細々と交流の幅を拡げていきました。

2009年からは総連本部権利福祉部の援助を受け徐々に参加者が増え、昨年のクリスマス会はムジゲ会の9家族27名とボランティア38名、大阪朝高吹奏楽部、ハナ舞踊研究所の公演出演者など43名、総勢108名が参加する中でクリスマス会と第4回総会 を持つことができました。

ムジゲ会の9家族の中には、初めて参加してくれた2家族がいましたし、オモニたちだけでなく、アボジや兄弟たちも参加してくれて、家族間でクリスマス会を楽しむことができました。

この着実な歩みには、ムジゲ会のご家族の努力、協力ももちろんですが、今日も子どもたちを親切に見てくれている朝青、留学同のトンムたち、ボランティアのオモニたち、そして、総聯本部や総聯支部、女性同盟をはじめ多くの団体のご支援があってのことだと思います。 この場をお借りして、深く感謝いたします。

そして、大阪ムジゲ会結成とその後の活動を先頭に立ってご尽力くださった前会長や前副会長に、ムジゲ会一同の名前で感謝と慰労の言葉を送ります。


マイノリティな私たちの未来のために

2009年のムジゲ会全国交流会にボランティアとして参加した京都商工会の職員だという青年は次のように語ってくれました。

『僕は日本学校を卒業して留学同を経て商工会で働く事になりました。日本人社会で育ってきた僕にとって、日本人社会の中の在日同胞の立場と在日同胞 社会の中の在日同胞障がい者の立場は非常に共通するものがあると感じ、ムジゲ会の活動 に注目しているし、応援したいと思っています。』

日本社会に生きる在日コリアンで障がい者家族の私たち…。 数でいうと絶対的な少数派です。

それでも、私たちの子どもたちも在日同胞を構成する要員の一人なのです。

私たちの子どもたちはこの世に生まれて早期にハンディキャップを負いました。障がいを持つ子どもの親になるなんて自分の身に起こるまで想像もしなかったことです。

ただ、障がいを持って生まれたから といって不幸かというと決してそうではありません。ただ、社会生活を生きていくには、生きにくさや困難さを抱えており、周りの人の理解や手助けが必要なのです。 人は生まれてから死に至るまでずっと歳をとり続けていきます。青年期を過ぎれば体力は衰え、眼が見えにくくなったり、耳が聞こえにくくなったり、動きや記憶も鈍くなります。 健康に生まれても病気や事故で本来の機能を失うことや、若年性アルツハイマーや認知症でその人らしさを無くす事もめずらしい話ではありません。 人生の途中で障がいを負ったり、それと似通った悩みは誰にでも身近に起きることなのです。

障がいのある人が暮らしやすい社会は健常な人も暮らしやすい社会だといわれています。 そう考えると、障がいのある人を理解し支援するという事は同胞のもつさまざまな悩みに寄り添うことに近づき、ひいては同胞社会の絆を深める事に繋がるのではないでしょうか?

現在トンポのコミュニティがウリハッキョを基軸に展開されていく現状から、ウリハッキョに入学しなかったり、受け入れてもらえない障がい児とその家族はトンポコミュニティでの交流の機会を失い、理解を得たり居場所を確保するのは難しくなります。 せめて、ムジゲ会での交流がその隙間を少しでも埋められるように、集まってくださった方々と悩みを共感し、共に子どもたちの未来を考えて行きたいと思います。

 

これからのムジゲ会
大阪ムジゲ会は、今日の記念式典を契機にこれからも着実に一歩ずつ進んでいこうと思います。 まずは年2回の行事を定例化し、春か秋の屋外行事と、12月のクリスマス会を続けていきます。

そして、ムジゲ会会員だけでなく、まだ、ムジゲ会の存在を知らない方にもムジゲ会の存在を知ってもらえるように宣伝活動としてホームページの開設やムジゲ会通信の発行を継続しようと思います。

一人でも多くの障がい者、障がい児の家族が、ムジゲ会の存在を知り、心と体の安らぐ会としてがんばっていこうと思います。

いきなり大きなことはできませんが、ひとつひとつの出逢いを大切にしながらこつこつとネットワークをつなげていきたいと思います。

何といっても活動の主体は障がい者本人と家族であるべきだと考えます。

本日、お集まりくださった皆様、総聯本部や支部、女性同盟や朝青、留学同の皆様に今後もムジゲ会の活動にご関心とご支援をお願いし、記念式典の報告とさせていただきます。